2024年で生誕40周年を迎えた日本のファッションブランド「タケオキクチ(TAKEO KIKUCHI)」。そのデザイナーである菊池武夫氏は、数々の逸話を残す日本ファッション界の偉人と言っても差し支えないだろう。今回はそんな生ける伝説である菊池武夫氏の逸話と、タケオキクチの魅力について書いていく。
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「タケオキクチ」とは?
「THIS IS THE JAPAN BRAND」「日本代表の誇りを持つ」というコンセプトを掲げる、日本のメンズファッションブランド「タケオキクチ」。1984年にデザイナーの菊池武夫氏によってスタートし、トラディショナルな英国調のアイテムを中心に展開。日常に溶け込むリアリティのある服作りを信条としており、菊池氏が感じている空気感とリアル(現実)が服の中で一致しているかどうかを、服をデザインする上で常に気にしている。
ここからは、タケオキクチがどんな経緯をもって現在まで進化してきたのか、ファッションデザイナーという仕事との馴れ初めから、菊池氏がデザイナーとして残してきた逸話とともに深掘りしていく。
菊池武夫の逸話1デビュー前から新聞で大々的に取り上げられるほどのデザイナーとしての才覚
小さい頃から絵を描くことが好きだった菊池武夫は、高等専修学校の文化学院 美術科に入学し絵を学ぶが、「絵の道で食っていくことは難しい」との理由から絵描きにはなるまいと決めていた。ファッションの道に進むきっかけとなったのは、当時の日本橋高島屋で実施されていた学生や若手デザイナーの作品を販売する企画。「物は試し」とデザイン画を応募してみたところ、すぐに採用され、それが大いに売れたことが菊池氏の「ファッションの道で食っていく」という気持ちを固めた。文化学院を卒業後は、原のぶ子デザインアカデミー(現・青山ファッションカレッジ)に進学し、ここから本格的にファッションの道を歩み始める。菊池氏は在学中から早くもコレクションを発表しており、それが業界でも注目を集め、デザイナーとしてデビューする前にも関わらず、菊池氏の作品はジャパンタイムズに取材され新聞を大きく飾った。卒業後はいくつかのクチュリエ(洋裁店)を渡り歩き、後に級友らと伝説的なブランドとなるメンズビギの母体である(株)ビギを設立している。
ちなみに、上の日本橋高島屋のエピソードで“作品”という言葉を使ったが、自身の作った服を作品と捉えているデザイナーもいる中で、菊池氏は服を作品だと思ったことは一度もないそう。作りたいのは日常で着られる服で、「(三宅)一生くんのものは、一目で一生くんの服ってわかるけど、僕の服はわかりづらいんじゃないかな。僕の服は、僕の生活というか生きている形が服になって現れるからね」と語る。
菊池武夫の逸話2DCブームの火付け役となった伝説的ブランド「メンズビギ」の生みの親
デザイナーとしてデビュー後、約10年はクチュリエや自身のアトリエで主に注文服を手掛けていた菊池氏だが、ずっと心の内に抱えていた「自分と同じ世代の多くの人たちに向けて、自由な発想でデザインする欲求」が育ち、リアルクローズを作りたいという思いから既製服事業へと転換することになる。そして1970年、級友であり当時の妻であった稲葉賀恵氏や、同じく級友であった大楠裕二氏とともに、レディースウェアを手掛ける(株)ビギを設立。菊池氏はデザインと制作を担当し、劇団四季の舞台衣装などを手掛けていた。菊池氏にとってビギの設立は今でも鮮明に思い出せる強烈な体験だったようで、「その後の人生を変える最大級の出来事だった」と語っている。後にメンズラインも発足し、そちらでは萩原健一主演の伝説的ドラマ『傷だらけの天使』の衣装を担当したことで、メンズファッションの分野で爆発的なブームを巻き起こす。また、かのブルース・リーも1973年に『燃えよドラゴン』でビギのスーツを着用している。その後、メンズラインは1975年に菊池氏が独立させており、これが伝説のブランド「メンズビギ」の始まりとなった。
コム デ ギャルソン、ヨウジ ヤマモト、イッセイ ミヤケなど1980年代の日本で社会的ブームとなったDCブランドだが、その先駆けであり火付け役となったのが他でもないメンビギである。ビギ時代から衣装提供をしていた『傷だらけの天使(1974〜75)』の大ヒットを追い風に、「菊池武夫」の名前は世に知れ渡り、ブランドは熱を帯びて成長し続けた。
菊池武夫の逸話3日本人が手掛けるメンズブランドとして初のパリ進出
メンズビギが日本で順調に売り上げを伸ばしていたことから、菊池氏は海外への進出を思い立ち、ブランド立ち上げからわずか2年でパリに拠点を移す。パリでコレクションを発表し、日本人として初めてメンズのショップをパリにオープンする偉業を成し遂げた。本来、メンズファッションの中心となるのはミラノであり、当時も参考になるのはジョルジオ・アルマーニぐらいだったと語る菊池氏。その中であえてパリを選んだ理由は二つ。一つはフランスが異文化を上手に取り入れ、それをいつの間にかフランス的に染めてしまう独自の感性に面白さを感じたこと。もう一つは、世界中から集まったデザイナーたちが作り出す“モード”の感覚がパリでしか見られなかったこと。当時からレディースファッションにおいてトップであったパリに、最先端のモードファッションが集結していることに魅力を感じ、パリにメンズビギヨーロップを設立した。ちなみに、パリで2回目となるショーを開催した際の相棒はルシアン・ペラフィネだったそうだ。
何もかもが順調かに思われたが、菊池氏が離れたことで日本サイドの経営が悪化。どちらかを捨てる決断を迫られ、菊池氏は1979年にパリから撤退し日本へ帰国することを選んだ。負債は1億円ほどあったそうだが、菊池氏が東京へ戻るとすぐにショーが反響を呼び、立て直しに成功。この時、一人で経営とデザインを両立することの難しさを痛感したことで、経営面は古巣のビギに託し自身はデザインに専念することを決めた。
菊池武夫の逸話4自身の名前を冠した「タケオキクチ」の立ち上げ。同時にセレクトショップという業態を世に広めた
1984年、菊池氏は次のステップに進むべくメンズビギを離れることを決意し、ワールドに移籍。そこでついに自身の名前を冠したブランド「タケオキクチ」を発足する。ビジネス面はワールドに任せる形で、菊池氏は制作に専念し、服のデザインだけでなく服を取り巻くさまざまなものを巻き込んだデザイン活動をワールドとともに模索。そこで実現したのが、1986年にオープンした西麻布のTKビルディングだ。タケオキクチとして手掛ける服だけでなく、自分たちで作れない服は海外のデザイナーから輸入し、ビル内には音楽を聴けるカフェバーやバーバー、ビリヤード場などを併設。当時はセレクトショップという業態はほとんどなく、自身が巻き起こしたDCブランドが全盛であった中で、またも先駆け的な仕事をやってのけた。
自身がプロデュースするTKビルディングにミュージックバーやビリヤード場を入れた菊池氏。音楽もビリヤードも大好きで、自分の好きなものを詰め込んだ形だが、特に音楽は「いつも音の鳴る場所に身を置いていた」と語るほど。音楽が鳴っているところ、人が集まる場所が大好きで、音楽に没入するわけではなく音の鳴る場所の空気感が好きなのだそう。日本人にはないオフテンポのリズム感に惹かれ、特に黒人のジャズに傾倒していた。菊池氏は、音が鳴る場で感じたものから服を生み出しており、タケオキクチの服から音楽性を感じるのは気のせいではないだろう。
タケオキクチは、発足時にまだDCブランドが全盛であったこともあって順調に成長していき、自身のブランド内での展開も次々にスケール化。菊池氏がコンセプトとして掲げる、あるアイテムにはそのアイテムのスペシャリティを、例えばスーツならスーツ、シャツならシャツと、特定のカテゴリを突き詰めたラインを展開していき、後にスーツは「タケオキクチ スーツ」として別ブランド化するなど、精力的に拡大していった。また、ライセンスでの展開も本格化し、ネクタイやベルト、時計などの小物を中心に、タケオキクチブランドとは別のマーケットにも波及。菊池氏自身、これらビジネスモデルは「ブランド成功の集大成である」と語っている。
ちなみに、タケオキクチだけでなくメンズビギなど多くのブランドを手掛けてきた菊池氏だが、服作りの際に「トレンドを意識したことはない」のだそう。菊池氏の前にトレンドはなく、後を追わない、先を行く。今を生きる菊池氏だからこそ、意識するのではなく、感じて、自らがトレンドを作り出している。
菊池武夫の逸話5齢85歳にして現場で指揮をとる情熱とバイタリティ
ビギの立ち上げ時からリアルクローズを追求してきた菊池氏は、2004年、「リアルクローズとは、着る人の対象年齢に合った発想が必要」との考えから、若い世代にブランドを託すことを決めて勇退し、新たなブランド「40CARATS & 525」を立ち上げる。だが、その8年後の2012年、菊池氏のデザインやスタイル、哲学が疎かになっていると感じ、クリエイティブディレクターとしてタケオキクチの現場に復帰。その時点ですでに73歳である。その後、渋谷明治通りに旗艦店をオープンし、2015年には13年ぶりに東京コレクションでロンドンのカルチャーとコラボしたコレクションを発表した。2024年で85歳を迎えた今も、自身が培ってきた考え方とスタイルを後に残すべく、現場で辣腕を振るう菊池氏の情熱とバイタリティがタケオキクチを成長させ続けている。
40周年を迎えた2024年は、ブランドの原点に立ち返り、過去のアーカイブアイテムをモチーフに現代的にアップデートさせた最上位ライン「ザ・フラッグシップ」をスタート。このレーベルでは、ブランド創業時に「ブランドの名前ではなく、商品そのものを見てほしい」との思いで作った、白地に白文字の「ホワイトタグ」を復刻させている。
続いては、タケオキクチの魅力を紹介!
タケオキクチの魅力1ベースは英国スタイルにあり。トレンドにとらわれないタケオキクチらしさを重視したタイムレスなデザイン
タケオキクチは、トラディショナルな英国風スタイルをベースに、「かっこよさ」「つくりの丁寧さ」「豊かさ」という3つの哲学と、トレンドにとらわれない菊池氏の感性で服を作り上げていく。ブランドテーマは「LONDON POP」。前述した通り、菊池氏は服に“リアリティ”を求めているため、現実離れしたデザイナーのエゴにならないように、まずは着る人のことを想像してデザインする。そして、菊池氏の遊び心を取り入れたデザインが特徴。タイムレスなアイテムを基盤に世の中のニーズをプレイフルに落とし込むことで、ファッションを楽しめるアイテムを数多く展開している。
タケオキクチの魅力②「日本代表の誇りを持つ」の考えに基づく、日本の美意識を反映した丁寧なものづくり
タケオキクチのアイテムは、ほとんどのアイテムが日本国内の工場で製造されており、つくりの丁寧さが随所に反映されている。素材には、ウール、カシミヤ、リネンなど、着心地が良く耐久性に優れた高品質素材を採用。菊池氏がビギを立ち上げる前、とある洋服店の社長が海外旅行経験のない菊池氏に「世界を見てこい」と旅費を提供してもらい、ファッションシーンが盛り上がりを見せていた60年代のアメリカとヨーロッパに2か月滞在したことがあった。その際に集めた戦前の軍服や労働着を解体し、パターンや縫製などの研究をして蓄積したノウハウが土台となり、着心地の良いフィット感を実現している。
菊池氏はサステナビリティに対しての関心も強い。エコに貢献する生地をなるべく使い、デザインをする際に素材が無駄にならないかどうかを常に考えてものづくりを行っている。菊池氏は70年代頃からエコへの関心があり、古いデニムを新しい製品に置き換える仕事をしていたという経歴も持つ。また、東京都で導入された地球温暖化対策であるクールビズが取り入れられた際も、3年間クールビズの運動に参加。現在も、夏を快適に過ごすためスウェーデン生まれの抗菌防臭機能「ポリジン」を備えたジャケット、エコな素材を積極的に採用するなど、サステナブルなアイテムを多く生み出している。
タケオキクチの魅力③ファッション以外にも様々なカルチャーを巻き込んだ異色コラボを展開
“遊びは仕事”と捉える菊池氏はさまざまなカルチャーに造詣が深く、ファッションだけに限らず多岐にわたるジャンルのユニークなコラボレーションを行うタケオキクチ。2021年には、前年に発売50周年を迎えた「トミカ」とタッグを組み、「カッコよさ」や「ミニカー遊びが生み出す感動」にタケオキクチのコンセプトでもある「色気と遊び心」を掛け合わせたアイテムをリリース。トヨタ 2000GTや日産スカイライン HTターボ RS、日産スカイライン GT-Rといった名車をチョイスし、トミカ仕様に特別に書き起こし図面やシグナルカラーを大胆なグラフィックに落とし込んだデザインを反映した。
また、以前よりライブツアーのコスチュームデザインを手掛けていたミュージシャン 布袋寅泰氏とのスペシャルコラボもリリースされた。布袋氏のアイコンでもあるギタリズム柄・Gマークを特殊な型押し技術によって立体で表現し、シックなブラックをメインカラーに採用。大胆なデザインながら、シックで落ち着いたタケオキクチらしさが表れたコラボアイテムとなった。